第21回移住者インタビュー『こちらに来て凄く人生観が変わりました』陸前高田市観光物産協会 事務局長 桒久保 博夫 さん

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桒久保 博夫 (くわくぼ ひろお)さん

東京都小金井市出身

陸前高田市観光物産協会 事務局長

 

-御出身は。

生まれも育ちも東京都の小金井市です。

 

-陸前高田市にはどのようなきっかけで訪れたのですか。

最初から陸前高田市に来たわけではないんですが、震災後、東京都の社会福祉協議会が募集した被災地で1週間ぐらい活動する都民ボランティアに参加して、2回目に参加した時に気仙沼、陸前高田でボランティア活動をしたのが最初に陸前高田市にご縁ができた時です。

 

-災害ボランティアで活動した場所の一つがたまたま陸前高田市だったということですね。

たまたまですね。最初は都民ボランティアに参加する側だったのですが、東京都の社協から被災地でボランティアを受け入れる側の常駐のコーディネーターが足りないからやらないかというお話をいただいて、じゃあ、お仕事としてもうちょっと長く関わってみようかなと思い、こちらに滞在する期間が長くなりました。最初に釜石でコーディネーターとして活動し、一度任期が終わって東京に戻ったのですが、陸前高田の社協の支援に入っていた職員が辞めることになったので、今度は陸前高田に行かないかとまたお話しをいただいて平成23年度の2月から3月まで陸前高田市社会福祉協議会の支援として生活支援相談員に配属され、また翌年度から閉所になるまで災害ボランティアセンターのスタッフを務めました。

 

-実際に陸前高田市に移住をされたのはいつ頃でしょうか。

現地コーディネーター時代からこちらには住んではいましたが、住民票は東京にありました。既に長い時間こちらにいるので移住をしたかったんですが、当時は地域の方々がまだ仮設住宅に住んでおり、その方々の住む家を探したり、再建したりが先の状況だったので私は旅館に住んでいたりしました。平成25年にようやく空いてきた仮設住宅に住まわせてもらえることになって、そのタイミングで住民票を移しました。

 

-移住を決めたきっかけは、常駐のコーディネーターをされる中で、こちらで長く活動をしようと決めたことになるのでしょうか。

そうですね。当時何故ボランティアに参加できたかというところにも繋がるんですが、ちょうど私は転職活動をしている谷間でした。やっと転職先が決まって、平成23年度から新しい職場で働く予定だったんですが、前年度末に震災があったことによって、予定していた仕事が無くなったということで、コロナでも言われていますが、内定取り消しみたいな状況になり、体が空いてしまっていたこともあってボランティアに参加しました。ですが、ボランティア活動等はしてきたんだけれども、これから生きていくうえで、何か仕事をしなきゃいけないという状況は変わっていなくて。その中で、どうせ仕事をするんであれば東京で誰がやっても変わらないような仕事をするよりは、こっちに来たら自分に少なからず求められるような仕事があって、そんな仕事をする方が自分にとっても良いなと思い、こちらで仕事をすることにしました。

 

-震災当時は東京にも内定取り消しのような影響が出ていたんですね。

そうなんです。今もコロナで騒がれていますが、震災直後の状況とよく似ているなと感じています。

私が会社を辞める時はタイミングが悪く、リーマンショックといわれるような経済的な打撃の影響もあり、正社員で就職するのが難しい時期でした。選り好みはできないのでとにかくなれる仕事、採用されるような仕事と就職活動してやっと決まった仕事も震災があって・・・と大変なのは分かるけど、電話1本で内定取り消しになるぐらい自分の立場が脆弱な状況に置かれているんだなと結構な絶望感がありました。これからどうやって生きていこうかなと思っていたんですが、ボランティアで被災地に来てすさまじい状況を目の当たりにして、自分の絶望感がちっぽけに感じるほど絶望感漂う光景がどこを見ても広がっていました。それでも、被災地の方はたくましく、前を向いて生きていこうというような姿勢になっているところに私は凄く影響を受けました。

また、こちらに来て凄く人生観が変わりました。元々勤めていた会社では会社組織として当然ではあるんですが、売上利益を上げてとそれを突き詰めていました。しかし、被災地のように今まで積み上げてきたものが一瞬で吹き飛んでしまうような状況があると思うとしんどい思いをして売上利益だけを追っていてもむなしいんじゃないかなと思いました。それよりも、誰かに感謝されるような仕事をしていた方がいいんじゃないかなとそう思うようになりました。東京では就職活動ですんなり決まらないぐらい必要とされていない感じがありましたけど、こちらでは猫の手も借りたいような状況であったということももちろんありますが、やれることがあって、求められることがあって、自分にそれができるというような状況で、戻って働くより、こちらで被災地の方々のために自分も働きたいし、その方が自分にとっても生きやすいんじゃないかなと。助けに行く立場だったのが、私としてはこちらの方に大きく助けられたなという感覚です。

 

観光案内所

《桒久保さんが勤める陸前高田市観光物産協会の観光案内所の様子》

 

-先ほど、一時は旅館に住んでいたこともあったり、仮設住宅に住んでいたとお話しされていましたが、現在のお住まいはどうされているのでしょうか。

今は民間のアパートに住んでいます。

 

-いつ頃に今のお住まいに移られたのでしょうか。

去年の4月です。3月末まで仮設住宅に住まわせてもらっていたんですが、転機が2つ重なり、ちょうどその間に結婚をしまして、こちらで同居する物件を探さなきゃいけなかったというのと、仮設住宅の移転集約で住まわせてもらっていた仮設住宅が年度末に閉める対象になっていたので、いずれにしてもそこから出なきゃいけないタイミングだったということもあって民間のアパートに引っ越すことになりました。

 

-ちなみに家賃はいかがでしょうか。よくこの地域は家賃が高いという話を聞きますが・・・

正直高いと思いますね(笑)。間取りこそ一部屋多かったりしますけど、今住んでいるアパートが家賃8万円ぐらいなんですが、東京で私が住んでいた小金井市の隣の国分寺とかもそんなに変わらないですからね。そう考えると結構高いとは思います。

 

-再建されてた建物も多いので、比較的新しい建物というのも家賃に影響がありそうですが。

これはしょうがないかなとは思います。物件のオーナーさんの立場で考えると借り手がいるうちに少しでも多く回収したほうが、当然その後の運用が楽になりますし。今年はだいぶ状況が変わっていると思うんですが、去年ぐらいまでは物件が取り合いだったんですね。値段ではなく空いているところを探すという状況でしたし、高いからいいやとはいかないのが家なので。

 

-陸前高田市ですと最近は移住された方が空き家を活用しているという話をよく聞きますが、物件を探していた際にはそういった空き家なども探されたのでしょうか。

高田暮舎さんというNPOがあって空き家バンクなんてものもあるんですが、常時ストックがあるわけではない状況であったり、自分が住みたいタイミングで空いているわけではないですし、不動産屋程物件の球数があるわけではないので・・・当然、私もそこを頼って探したりしたんですけど、その時はちょっと条件に合うような物件を見つけられなかったですね。

 

-そうなんですね。空き家がたくさんあるという話もよく聞くので、アパート等の物件から決めるよりはスムーズに決められるイメージがありました。

実際に聞く話なんですけど、実質空き家のような状態ですけど、お盆と正月には仏壇があるから戻りたいというところもあるようなので、そういうところだと、住んでも、その時だけ家を空けたりしなければ・・・とかは難しいなと思いますね。

あと、面白い話がありまして、私の妻が県立病院に勤める看護師なんですが、今まで結婚して1年別居でした。私がこっちに住んでいて、妻が内陸の病院に勤めていたので。去年異動になって、こちらの県立病院勤務になったのですが、とにかく住む所を探すのが凄く大変で、県の辞令交付日に空き物件が一斉になくなるんですよね。目星をつけていたんですが、当日いざ辞令が出た時に不動産屋に連絡したら「今朝から電話が殺到していて、そこ埋まっちゃいました」って。ひぇ~となりました(笑)。じゃあ、どこが空いているんですかと聞いて、そこで躊躇してしまうとそこも埋まってしまうので、ちょっと高いかなと思いながらもそこに入るしかなかったです。

とはいえ、そういった家賃の問題も長くは続かないと思っています。復興創生期間の10年であらかた大掛かりな工事も終わるところなので、その人たちが長期で借り上げて使っていた物件は空いたあと、同じ規模で埋まる事はないと思うので、家賃とかもそれなりの水準に落ち着いていくんじゃないのかなと思います。

 

-私も異動してきた身なので、その状況が良く分かります(笑)。さて、こちらの地域での移動についてお聞きしたいのですが、やはり車でしょうか。

車ですね。東京都の社協から派遣された時は所属の組織が車を手配してくれましたが、地元のNPOに勤め始めてからは自分で手配しました。なので、真っ先に買ったのが車でしたね。旅館に住みながら、家より先に車を買いました。

 

-東京都に住ん営る時は運転すること等はありましたか。

家の車を運転していました。仕事を含めて運転する機会はあったので、こちらに来ても問題ありませんでした。こちらと東京で大きく違うところがあるんですが、東京だと一家に車は1台とかなんですね。駐車場も無いので。こちらだと完全に一人1台ですね。

 

-移住者インタビューでもよく言われているのですが、やはり車は必須でしょうか。

そうでしょうね。やっぱり車は必須というのはつくづく感じます。ライフサイクルが維持できなくなりますね。1度身をもって味わったことがあって、まだ住民票が東京にあった頃なんですが、財布ごと免許証をなくしてしまって、免許の再発行が東京じゃないと出来ないので、東京に帰らなければならないんですが、自分の家から身動きが取れなくなりましたね。職場に歩いて行ける距離ではないのでその日の出勤が出来ないですし、当時住んでいた場所は路線バスもそんなに通らない場所だったので、バス停にたどり着いても、出勤に間に合わない時間のバスしかなかったり。一刻も早く車に乗れるようになるには東京に帰って再発行するのが一番近道なんだなと思ったんですが、どうやって東京に戻ろうかと。人に送ってもらってなんとか駅までたどり着いたのですが、本当に車は必須だなと感じました。いきなりなくなると本当に身動きが取れなくなります。

 

-この地域は新幹線の駅が遠く、また、陸前高田市は電車が通っていない等、交通の便があまり良くないところがありますが、不便に感じること等はありますか。

特にないですね。私は車さえあれば不自由さは感じないです。何だったら、『BRT』は結構いいなと思いますね。東京から派遣されていた時も月に何回か報告に帰らなきゃならなくて、『BRT』で移動したりしていたんですが、長いなとは感じますけど、それしかないならそれでという感じで耐えられなくはないかなと。

逆に最近知りましたが、名古屋まで行くのは凄く速いんです。ここから花巻空港まで1時間ぐらいで、そこから飛行機で1時間半ぐらいで着くので東京に行くのとそんなに変わらない時間で名古屋に行けるんです。去年初めて使ってみて、こんないいものがあるんじゃないか!と感じました。それを考えると知らないだけで、色々移動手段があるんですよね。

 

●『BRT(高速バス輸送システム)』

震災の影響で不通となってしまった鉄路の代行輸送として導入されたバスを基盤とした大量輸送システム。大船渡盛駅から陸前高田市を経由し隣接する宮城県気仙沼駅を繋いでいる。

 

まちの縁側

まちの縁側 中《観光案内所が入居している陸前高田アムウェイハウスまちの縁側。地元の素材「気仙杉」と気仙大工の伝統的な技法が使われています。》

 

-現在、陸前高田市観光物産協会の事務局長を務めていらっしゃいますが、具体的にはどのようなお仕事をされているのですか。

何でも屋ですね(笑)。かっちりとした名前なんですが、職員も私を含めて常勤3人とパート1人の規模なんです。なので、何でもやらなきゃいけない部分はありますが、事務局長の立場で一番大きいミッションは、観光物産協会という組織の維持発展のために経営管理や経営企画をしていく事になります。それをやりつつ、もちろんイベント・お祭りごとの補助や会場の設営から運営、物産の催事の賑やかしや販売もやったりします。

 

-NPOで活動されていたとお話しておりましたが、NPOではどのような活動をしていたのでしょうか。

NPO法人パクトという法人で私は常務理事という立場で経営に近いこともやっていました。そういう意味では今と同じような感じですね。現場の担当としては市内にある小学校を改築した宿泊施設「二又復興交流センター」の事業担当をしていて、そこでセンター長を5年務めました。パクトにも理事としては残ってはいますが、現場の第1線からは退いた形になります。

 

-なぜNPOで勤められた後、陸前高田市観光物産協会の事務局長になられたのでしょうか。

私が運営管理を担当していた「二又復興交流センター」は市の指定管理でやらせて貰っていた物件でした。市の施設ということもあって、当時、観光関連の団体と市で行っていた観光経営会議で市全体としての観光をどうして行ったらいいかを話す会議体の中に参加させていただきました。その中で、「二又復興交流センター」という一つの施設の事だけを考えるだけではお客様はこれ以上増えないし、続けていくというのがなかなか難しいだろうなと考え、もう少し大きな視点で考えて行動していく必要があるんだなと思い、市全体として取り組む行事ごとや観光誘客等にもちょこちょこと参加させていただいていました。そんな時に観光物産協会自体の組織の改編をしようと考えているという話があって、さらに事務局長は外からというような話も出ていて、私ももうちょっと地域の観光全体で仕事をできればと考えていたので、そこが上手く結びついて、やってみたいですと手を挙げて事務局長になることになりました。

 

-NPOで活動している頃から、観光で地域に貢献していきたいという思いがあったのですか。

実はNPOで「二又復興交流センター」を運営していた時も、私が個人としてそれをやりたくてやっていたわけじゃなくて、先に法人が「二又復興交流センター」の管理運営をやることになった時、その経験を持っている人が私以外いなかったということもあり、それでやることになりました。人生無駄なことはないと思うのですが、東京で有店舗型の空間提供という形態のサービス業で店長をやっていたので、いわゆるお客様商売というやつですね。それが土台となって、やろうと思えばできたので、本当に個人的にやりたくてやっていたわけではないんですよ。

 

-今までの経験から、繋がりができて今のお仕事に繋がったということですか。

そうですね。元々お客様相手での仕事っていうのが、やっていただけあって嫌いではない・・・むしろ、好きな方なので、形は色々変わっていますけど、根柢の部分では同じなので、対応できたと思います。

観光の仕事がやりたいというか、もちろんやりたいにはやりたいんですが、ただ、観光でというのは私にとって手段の一つでしかないんですね。そして、目的は何なのかといいますと、地域経済を活性化させて、街の持続性を高めることがやらなきゃいけないことなんだろうなと思っています。どうやってそれをやるかという時に、今までの経験から、観光で地域経済を回していくっていうのが自分にとれる一番いいアプローチだろうなと考えました。そういうこともあって、観光を仕事にしています。私も住民の一人なので、この街に住み易くあってほしいし、長くそうあってほしいので、そのために自分たち一人一人が出来ることって何なんだろうと考えて、自分は仕事を通じて、そんな街を作っていければなと。

 

-大きな目的ですね。

今自分がやっている仕事をちょっとずつ外に向かってやっていけばできるのかなと思っています。

一つの施設だけじゃなく、もうちょっと大きな単位でやって、それが上手くいけば一施設だけじゃなく他の施設も景気が良くなる可能性もありますし、賑やかになれば人が来ますし、活性化に繋がると思います。何より、人が来る方が楽しいですよね。我々サービス業はそうなんです。お客様が来ないっていう状況でポツンとでもいなきゃいけないというのが精神的に苦しいですし。そこにちらほらでもお客様が来て満足してもらって、次にそのお客様が別のお客様を連れてきてくれたりすると凄く嬉しいんです。そうやって来る人がどんどん増えていくと迎える側も楽しいですし、それがお客様に伝わって、次のお客様に繋がるんじゃないかと。そういう循環を生んでいきたいなと思っています。

 

桒久保さん 仕事風景

 

-この地域に来てから楽しまれていること等はありますか。

こんなことをいうのもあれなんですが、生きていく事が楽しいですね。震災があって人の生死が間近にあった土地だからということもあると思いますが、自分が今生きていることが実感できるんです。東京に住んでいた頃はそれが当たり前で、あまりそこにありがたみを感じませんでした。会社のために売上利益を追う中で、勤めていた会社が24時間営業の店舗運営をやっていたこともあって、時間の感覚が薄く、空調が整った店内や会社で働いて、暑さや寒さを実感することもなく、今何やっているんだろうと感じることもありました。こちらに来てから冬に「寒い!」と思うんですけど、その感覚が生きているからこそ感じられるものなんだろうなと。五感で生きていることを感じられます。

あと、仕事自体が楽しいですね。自分がやっている仕事というのが誰の何のためにというのが凄く見えやすい土地なので、やって喜んでくださる人が居た時にやって良かったなと思いますし、今度はこういうことをやったらもっと喜んでもらえるんじゃないか等を繰り返していける仕事をさせて貰えていること自体が自分にとってはありがたいことですし、やっていること自体が楽しいです。

 

-逆にこの地域に来て大変だったことはありますか。

結構聞かれることがあるんですが、大変だったことというとそんなにないですね。全くないわけではないんでしょうけど、大変なうちに入らないと思います。それよりも、得られることの方が多かったということもあって、印象に残っていないですね。

大変で言ったら地元の住民の方の方がよっぽど大変でしたでしょう。私はそこに住まなきゃいけないわけでもなかったですし、逃げようと思えば逃げることが出来る立場でしたので、当時の状況から逃げることが出来ない住民の方たちの方が大変な思いをしていたと思います。

 

-最後に今後の目標や見通し等を教えてください。

先ほどの話しと同じになってしまうのかなと思うんですが、震災があってコロナがあってということもあるんですが、私もこの町の住民の一人として、街の維持発展もそうですし、街の持続性ですね。倒れてもらっては困ると思っているので、そのために自分たちができることをできる手段でやっていくのが必要だと思います。私は、仕事が観光という仕事なので、その観光を通じて、観光という手段を使って地域を活性化させて、街の持続性に少しでも寄与できればと思います。